それでもシンキロウは化学する
シンキロウはこのブログでわかりやすく読みやすく化学を伝えたいと思っている。でもわかりやすさとは何かと考えるとすべては霧の中である
世の中には優れた科学ライターがたくさんいて先端研究をわかりやすく紹介してくれている。でもかつて専門家だったシンキロウにも読んでて分かりにくい、入り込んでいけない記事は少なからずあった。内容は興味深いのに…。深く考えたことはなかったけど、理由を思いつくだけ挙げてみると
- 数式が多くていちいち定義を読まないといけない
- 専門用語を定義なく使っている
- 英語の略号が多くて出てくるたびに数行戻らないといけない
が考えられる。ライター諸氏もこのあたりに注意を払っていて「数式を使わない」を売りにしている書籍も多数ある。だけど本質はそこではない気がする
シンキロウも博士研究員をしていたときにいくつか解説文を書いたけどひどいものだった。ページ数いっぱいにとにかく専門用語を詰め込み、関連文献を引用しないといけないので脚注だらけ。で、文はぶつ切り。教授からはそれで良しと言われたんだけど、ゲラ刷りがきたときにはため息が出たね
以前、コラムニストの小田嶋 隆氏だったか、何かの記事で「日本語はやわらかい和語の上に固い漢語がのっている」と言っているのを見た
目で文を読み頭の中で再生する作業の中で、画数の少ないひらがなと画数の多い漢字のバランス、やわらかな音の和語といかめしい音の漢語のリズムがうまく合わないのが入り込めない大きな原因かもしれない。漢語が多すぎると読みにくいし、ひらがなばかりだと文章がじゃらけた感じになってしまう
わかりやすさを追求しマンガを多用した書籍も書店に並んでいる。でも読んでみると必要以上に冗長であったり、大人が手に取ってレジに進むには少し気恥ずかしい作りのものも多い。サイエンスの書籍は大学生・院生などの専門家向けと小中学生向けにニ極化しているように感じる
内容に関してもハデな実験や壮大なサイエンスが衆目を集めやすい。もちろんでんじろう先生の実験や相対性理論・量子力学の特集はサイエンスへの門戸を開くという点では素晴らしいものだと思う。ただ壮大稀有なものでなくても身近な現象の裏にもサイエンスがあることを考えてもらうことも大切だと思う
シンキロウがいままでに感銘を受けたのは寺田寅彦随筆集だ。寺田寅彦 (てらだ とらひこ、明治11年−昭和10年) は東京帝国大学の物理学者で随筆家文筆家。文体は現代人に比べて柔らかいとは言えないが、そこは漢文の素養ある明治時代の人。うまく言葉を運んでいる。内容も面白くて通勤電車が混まないようにするにはどうすればいいかなどと身近であり現代に通じる話題もある
科学者ではないけど、柳田國男の遠野物語なんかも文体の簡潔さがいい。〜なり。〜といへり。という擬古文の流れが心に沁みる。明治の学者の力を感じる
シンキロウの力量では彼らの境地に達することはできないかもしれない。到達しようと考えることがおこがましいのかもしれない。それでも、それでもシンキロウは化学する